ベルグソンと明石家さんま そして機械的笑い論

「さんま」という言葉を聞いて、思い浮かべるイメージは人によって違うだろう。辞書を引くと、「秋刀魚」であったり、「三麻(サンマ)」という聞きなれれない言葉だったり、「サンマ州」というバヌアツの州が書いてある。辞書には書いていないけれど、ぼくたちは、明石家さんまというお笑い芸人を思い浮かべるのではないだろうか。

 

もともと明石家さんまは、「笑福亭さんま」という芸名で落語家として活躍していた。その後、活躍の幅を広げていき、お笑いタレントとしてお茶の間のスターとなっていくのだが、その過程で、さんまという言葉の概念が多義性を帯びていき、辞書で引いても出てこない言葉として、定着することとなったのだろう。

 

その名を一躍有名にしたのは、まぎれもなく「オレたちひょうきん族」というお笑い番組である。ブラックデビルアミダばばあ、なんですかマンなどの数々のキャラクターを生み出し、誰もが一度は聞いたことのあるギャグをヒットさせた。

 

 

明石家さんま自身のキャラクター性も言及しておく必要があるだろう。トレードマークである出っ歯はよくイラストにされている。顔というのはキャラクターにとって重要であると精神科医斎藤環氏は語っているが、いい意味でも悪い意味でも一度見たら忘れないような特徴的な顔立ちといえるだろう。

 

また島田紳助は彼のスター性を”華”があると説明する。明石家さんまが現場にいるだけで、面白い空間が生まれ、場がぱっと明るくなるのだそうだ。雰囲気であったり、醸し出すオーラであったり、キャラクターがキャラクター足り得るために必要不可欠な要素ではないだろうか。

 

明石家さんまは寝ないことでも有名である。平均睡眠時間は2〜3時間ほどで、ショートスリーパーとして医者から診断されているようだ。後輩芸人はよくそのことをネタにしているが、移動中の新幹線の中であろうと眠ることなくずっと喋り続ける。寝ている姿を見たことがない、寝ている姿を見せないとも言われているが、それは無防備な姿を晒すことを嫌い、明石家さんまというキャラクターを貫き通すためにあえてそうしているのかもしれない。

 

明石家さんまというキャラクターは共通認識として確立しているが、キャラクター性を差し引いた”素”の部分はとても未知なところがある。思い返せば、彼自身が本質的なことは語っているところを見たことがない。プライベートをネタとして語っているが、彼自身の思想のようなものは見えてこない。お茶の間の前にいる視聴者の幻想を壊したくないのか、それは本人にしか知り得ないことであろう。

 

お笑い怪獣と呼ばれる所以は、彼の築き上げた幻想の構築と維持の賜物であるのだろう。だけど、ぼくにはそれが、不自然に思えてしかたがない。らしさがない。人間らしさの欠落として感じてしまうのである。

 

 

「固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない」

 

と、哲学者ベルグソンは笑いを定義している。つまり、なんらかの対象に、それは動物であり、物体(モノ)が、人間として結びつきを得られた瞬間に笑いが生まれるということである。

 

ぼくはこの言葉と、明石家さんまという存在にねじれた構造を感じる。それはつまり、こういうことである。

 

人間が人間的であるということで笑いを生み出すのではなく、人間らしさの欠落した人間が人間的に振る舞うことで笑いを生み出しているのではないか。

 

 

さて、本題に戻ろう。明石家さんまの笑いとはなにか?

 

かつてラジオで、「笑いの基本は”ベタ”である」と語っている。誰にでも分かるように丁寧にネタフリをし、お決まりのボケをかます。大衆に迎合しているわけではないが、万人に受け入れられる笑いといえるだろう。お笑い界の頂点に君臨し、『踊る!さんま御殿!!』、『ホンマでっか!?TV』など、司会を務める冠番組を数多く持ち、芸能界屈指の名司会者であろう。

 

個性的な芸能人を仕切る技術。相手が素人でさえも、美味しく調理する素人いじりは秀逸である。

 

個人的に注目したいのは、番組中に共演者(ゲスト)がウケたネタをパターン化し、ポイントポイントでそのネタを繰り返す手法である。あえて、「もう一回、そのそれ(ネタ)ふるからな」と前置きすることもある。それはギャグであろうと、自己紹介であろうと、言葉遣いであろうと、繰り返すことで笑いとなる天丼と呼ばれる手法である。そのゲスト(ターゲット)と共犯関係を結び、またその他のゲストと観衆(視聴者)すらも第三者としての共犯関係を成立させているように思うが、これはまさに即興的集団芸のようなものである。

 

再度ベルグソンの言葉を引用させていただくが、「我々の笑いは集団の笑いである」と語っている。それはつまり、笑いとは共感的なものであり、ハイコンテクストを共有することで成立する現象であることに違いないが、明石家さんまは、場を支配し、自身の手中の中でコントロールすることで、笑いをショーとして、演出する天才であるといえる。

 

精神分析学者のエリック・ スマジャの言葉を借りるならば、「(笑いを誘うのは)人として注意深い順応力と活発な柔軟性があって欲しいところに、いわば機械のようなぎこちなさがみられるからだ」という言葉があり、まさにぼくが説明したいことを的確に言語化している。要するに、ゲストは明石家さんまとの共犯関係を結ぶことで、そのネタを振られたら即座に返さなければならいず、それは瞬発力や反射神経の機敏さを必要し、”機械的”にならざるおえないのである。

 

たかが数時間の番組内で、明石家さんまはあらゆる仕掛けを配備し、間を操りながら操り人形を操作していくのである。

 

明石家電視台という番組ではレギュラー陣のコンビネーション芸というものが一つのお決まりのくだりとしてある。いわゆる「お約束」のセリフ・やりとりがあちこちに存在し、これを『(明石家)定食』と呼ぶ。

 

以下、ウィキペディアを参照しているので、必要なければ読み飛ばしていただいて結構である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/痛快!明石家電視台#.E6.98.8E.E7.9F.B3.E5.AE.B6.E5.AE.9A.E9.A3.9F

 

間寛平

必ず寛平が一番初めにボタンを押し、ボケ解答を3個言うことが暗黙のルールとなっている。しかし、ボケが面白くないことが多く、さんまから「早よ!ジャマくさい!」などとせかされ、後輩のさんまから説教されてしまう。さんまがボケを褒めると調子に乗って4回目を押すことがあり、「何で押しはんのん?」と責められることがある。ボケの調子が悪いと、さんまに回数をごまかされることがある。(2回目なのに3回目と言われたり、3回目なのに1回目と言われる。)また、さんまが編集で寛平の回答をなかったことにするよう示唆する。

 

松尾伴内

アシスタントからゲスト紹介されると「出たっ!!」とわざとらしく答える。毎回明らかに女性モノの衣服を着てくるので、さんまに失笑されて「今日こそ女モノやろ?」(たまに「それおばあちゃんモノですよね?」)と聞かれると「男女兼用でございます。」、「高かったんでしょ?」と聞かれると「お求めやすいお値段です。」、「その服何色?」と聞かれると「ピンピンピンクです。(ピンク色系統の服を着ているとき)」「ブルースカイブルー!!!(青色系統の服を着ているとき。最後の「ブルー」には特に力が込められる)」などと答える。

 

村上ショージ

解答者紹介のときには、必ず「ドゥーン!」か「しょうゆうこと」をする。クイズの途中で「ピロロロロン」という効果音が鳴ると、「誰か来た!」と言い、さんまが「ごめんね~。今本番中やねん!!」と言う。

 

いかがでしょうか。まさに明石家さんまの操り人形といえるのではないだろうか。彼らは言われたことをただやることだけが重要で、そこには秩序を破壊する祝祭としての笑いは存在しない。失敗したとしても、それがうまくいったとしても、明石家さんまのフォローで、それは笑いへと昇華されるのである。

 

 

人間らしさの欠落した人間と、明石家さんまを説明したが、明石家さんま自身についても機械的といえることも可能だろう。かっこよく言えば、お笑いサイボーグとでもいおうか。すべてを笑いにささげ、笑いと引き換えに人間らしさを失ってしまったお笑いの怪物。まさに、フランケンシュタインの生み出した怪物のような孤独な存在である。

理系的笑いと文系的笑い

古典的な笑いの理論は3つに分類されている。
 
まずは、優位理論。トマス・ホッブスによる定義では、”笑いとは、標的となった他の誰かよりもあるレベルで優っている、または卓越しているという感覚または認識から生じる「突然の栄光」または勝利のことだ”と説明されている。
 
次に、解放理論。高まりすぎた神経の興奮を解放する形式であり、カントの言葉で”緊張の緩和”と言い換えることもできる。また、フロイトの快感原理も同様にあてはまるだろう。
 
続いて、不一致理論である。不一致が生じて、それが解決されればいつでもユーモアが起こると考えるという理論である。
 
また、近年そこから発展し、以下の理論に細かく分類され、体系化されている。生物学的理論、遊戯理論、解放理論、優位理論、不一致と不一致解決理論、おどろき理論である。説明は割愛させていただくが、日々、笑いは研究され、理論化し、体系化が進められているのである。
 
上記の理論については、笑いの本質に迫った定義化であり、普遍化を目指して追求されている。今回、私が提案したい理論は、理系的笑いと文系的笑いというものである。お笑い芸人のネタを参照しつつ、理系的な笑いと文系的な笑いを説明しようと思う。
 
 
理系的な笑いとは、笑いの法則性を発見し、パータン化された笑いのことである。
 
例えば、三段落ちは、最低限の手数で笑いを取るパターンである。一段目でフリ、二段目でもフリ(小ボケともいう)、三段目でボケるという手法である。要するに、一段目と二段目でパターン化され、その最低限の手数でパターン化された後に、ボケをかますというものである。
 
あくまでもこれは一例であるが、パターン化とは、規則性や方向性を、受け手に認識させ、共犯関係を築いた上で、ボケを成立させていくことである。
 
理系的な笑いの代表的な芸人をあげるならば、バカリズムであろう。バカリズムは笑いのあらゆるパターンを発掘する天才である。
 
法則性を見つけ、あらゆる組み合わせで笑いを作る手法に長け、トツギーノはその代表的なネタといえる。無表情で淡々とボケを積み重ねていき、昨今、キャラ芸人が重宝されている最中、素材を堪能してもらうかの如く、ネタを追求している。バカリズムがそれらのパターンを発掘しなければ、十年後、二十年後、はたまた百年後まで、それらのネタのパターンは発掘されないであろう。言い換えると、誰よりも早くネタを発掘する才能の持ち主なのである。
 
 
続いて、文系的笑いとは、反証不可能な笑いのことである。
 
つまりそれは、パターン化ができず、むしろ弁証法的に笑いを再構築し、はたまた積み上げてきたものを破壊する笑いとも言えるだろう。
 
ネタを重視した笑いではなく、キャラクター性や世界観を武器に取る笑いである。
 
代表的な芸人をあげるならば、野性爆弾の川島であろう。
 
野性爆弾のコントはまさに唯一無二の世界観であり、分析したところで、感情論や主観論での解説しか出来ないだろう。
 
上記の理論にも当てはまらないであろうが、強いて言うなら、おどろき理論が一番近しい理論ではないだろうか。言い方は悪いが、結局なにがおもしろいかわからないのである。
 
以前、松本人志の笑いを宗教という観点から説明を試みたが、それに近いものを感じる。(笑いの神は死んだ
 
卓越したキャラクターには、ボケてもボケなくても、行動や所作、そして空気すら笑いに変えられるパワーがあるのである。圧倒的なキャラクターは、笑いの法則性を逸脱したとしても、許容されるのである。
 
次回、笑いのキャラクターに関して、分析し、そして考察してみたいと思っている。
 
 
どちらが優れているというものではない。キャラクターを捨て、存在感すら隠しながら、無の状態で笑いの法則性を追求していく笑いも素晴らしい。”キャラクターではない”キャラクターと再帰的にも考えられうるが、キャラクターよりもネタが勝っているということである。
 
さてさて、理系的な笑いと文系的な笑いを説明させていただいたが、そもそも理系とはなにか、文系とはなにか、という定義すらまともに体系化出来ていないのに、理論化を試みるのも無謀っちゃあ、無謀であった。
 
次回は、ベルグソン明石家さんまの関係性、その機械芸について語ろうと思う。
 
以上。