理系的笑いと文系的笑い

古典的な笑いの理論は3つに分類されている。
 
まずは、優位理論。トマス・ホッブスによる定義では、”笑いとは、標的となった他の誰かよりもあるレベルで優っている、または卓越しているという感覚または認識から生じる「突然の栄光」または勝利のことだ”と説明されている。
 
次に、解放理論。高まりすぎた神経の興奮を解放する形式であり、カントの言葉で”緊張の緩和”と言い換えることもできる。また、フロイトの快感原理も同様にあてはまるだろう。
 
続いて、不一致理論である。不一致が生じて、それが解決されればいつでもユーモアが起こると考えるという理論である。
 
また、近年そこから発展し、以下の理論に細かく分類され、体系化されている。生物学的理論、遊戯理論、解放理論、優位理論、不一致と不一致解決理論、おどろき理論である。説明は割愛させていただくが、日々、笑いは研究され、理論化し、体系化が進められているのである。
 
上記の理論については、笑いの本質に迫った定義化であり、普遍化を目指して追求されている。今回、私が提案したい理論は、理系的笑いと文系的笑いというものである。お笑い芸人のネタを参照しつつ、理系的な笑いと文系的な笑いを説明しようと思う。
 
 
理系的な笑いとは、笑いの法則性を発見し、パータン化された笑いのことである。
 
例えば、三段落ちは、最低限の手数で笑いを取るパターンである。一段目でフリ、二段目でもフリ(小ボケともいう)、三段目でボケるという手法である。要するに、一段目と二段目でパターン化され、その最低限の手数でパターン化された後に、ボケをかますというものである。
 
あくまでもこれは一例であるが、パターン化とは、規則性や方向性を、受け手に認識させ、共犯関係を築いた上で、ボケを成立させていくことである。
 
理系的な笑いの代表的な芸人をあげるならば、バカリズムであろう。バカリズムは笑いのあらゆるパターンを発掘する天才である。
 
法則性を見つけ、あらゆる組み合わせで笑いを作る手法に長け、トツギーノはその代表的なネタといえる。無表情で淡々とボケを積み重ねていき、昨今、キャラ芸人が重宝されている最中、素材を堪能してもらうかの如く、ネタを追求している。バカリズムがそれらのパターンを発掘しなければ、十年後、二十年後、はたまた百年後まで、それらのネタのパターンは発掘されないであろう。言い換えると、誰よりも早くネタを発掘する才能の持ち主なのである。
 
 
続いて、文系的笑いとは、反証不可能な笑いのことである。
 
つまりそれは、パターン化ができず、むしろ弁証法的に笑いを再構築し、はたまた積み上げてきたものを破壊する笑いとも言えるだろう。
 
ネタを重視した笑いではなく、キャラクター性や世界観を武器に取る笑いである。
 
代表的な芸人をあげるならば、野性爆弾の川島であろう。
 
野性爆弾のコントはまさに唯一無二の世界観であり、分析したところで、感情論や主観論での解説しか出来ないだろう。
 
上記の理論にも当てはまらないであろうが、強いて言うなら、おどろき理論が一番近しい理論ではないだろうか。言い方は悪いが、結局なにがおもしろいかわからないのである。
 
以前、松本人志の笑いを宗教という観点から説明を試みたが、それに近いものを感じる。(笑いの神は死んだ
 
卓越したキャラクターには、ボケてもボケなくても、行動や所作、そして空気すら笑いに変えられるパワーがあるのである。圧倒的なキャラクターは、笑いの法則性を逸脱したとしても、許容されるのである。
 
次回、笑いのキャラクターに関して、分析し、そして考察してみたいと思っている。
 
 
どちらが優れているというものではない。キャラクターを捨て、存在感すら隠しながら、無の状態で笑いの法則性を追求していく笑いも素晴らしい。”キャラクターではない”キャラクターと再帰的にも考えられうるが、キャラクターよりもネタが勝っているということである。
 
さてさて、理系的な笑いと文系的な笑いを説明させていただいたが、そもそも理系とはなにか、文系とはなにか、という定義すらまともに体系化出来ていないのに、理論化を試みるのも無謀っちゃあ、無謀であった。
 
次回は、ベルグソン明石家さんまの関係性、その機械芸について語ろうと思う。
 
以上。